誰かと「癒着」していると、コミュニケーション不全におちいることがあります。
そのため、相手との関係性が変化しなくなり、苦しくなります。
そうした「癒着」の状態はしんどいものですが、そこから新しい関係性を育むヒントをお伝えします。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.感情がふくらんで手に負えないから、癒着はコミュニケーションを妨げる
とても親しく感じている人には、言いにくいことがあるものです。
それを話そうとすると、わけのわからない抵抗が生まれます。
ほとんど反発のような感じです。
それはなぜかというと、もしあなたの言ったことで相手が傷ついたら、言ったほうおも落ち込んでしまうからです。
相手が傷つくとあなたも傷つき、相手が苦しむとあなたも苦しみます。
相手が怒っていると、あなたもカッとなります。
とくにあなたに対して怒ったときは、頭に血がのぼり、爆発しそうになります。
このように近づきすぎた関係では、言葉によるコミュニケーションをあまりしない傾向にあります。
二人のあいだには、いまさら言葉にたよらなくても、すべてを伝えあえるという感覚があります。
目は口ほどにものを言うとか、相手の思っていることは様子を見れば察しがつくはずだ、といった雰囲気です。
こうした関係にあると、あたかも二人のあいだで話しあいをしたり、コミュニケーションを通じて癒しをもたらすことが、許可されていないような感じになります。
そこにはすべてを物語るような「一瞥」があるだけです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.165
2.関係性を硬直させる「癒着」
今日のテーマも、「癒着」です。
おとつい、昨日に続いてのテーマで、少し食傷気味かもしれませんが笑、また少し違った側面から「癒着」を考えてみたいと思います。
「癒着」すると、関係性が変化しない
心理学においての「癒着」は、他人との心理的な距離が、近くなり過ぎている状態を指します。
相手との心理的な距離が近くて、ぴたっとくっついてしまっている状態。
それがゆえに、相手の気持ちや感情、言動にとても敏感になります。
また、相手からも同じように見られていると感じるため、まるで24時間365日、監視されているような息苦しさを覚えます。
そうして「癒着」していると、その関係性が変化しなくなります。
逆にいえば、関係性が変化しないことを、「癒着」と呼ぶこともできます。
親子、友だち、恋人、同僚…すべての人間関係は、時とともに変化していくものです。
自分が成長することで変わることもありますし、相手が変わることで、関係性が変わることもあるでしょう。
時とともに、関係性が離れる場面もあるでしょう。
あるいは、その別れた道が、ふたたび交わることもあるでしょう。
しかし、「癒着」していると、その関係性の変化がなくなります。
私たちの身体を考えてみると、変化していくことが、「生きている」ということなのだと思います。
変化しなくなってしまったら。
細胞の入れ替わりがなくなり、全身の血のめぐりが止まってしまったら。
それは、死を意味します。
関係性が、死んだようになっている。
それが、「癒着」のしんどさの一つと言えるかもしれません。
「癒着」の接着剤は、「罪悪感」
この関係性の硬直は、引用文では「言葉によるコミュニケーションの減少」をあげています。
このように近づきすぎた関係では、言葉によるコミュニケーションをあまりしない傾向にあります。
もちろん、言葉だけがコミュニケーションツールではありません。
ボディランゲージしかり、雰囲気や表情しかり、いろんな方法で、私たちはコミュニケーションをします。
しかし、言葉を使わないと、自分が思っていることを伝えるのは難しいものです。
「察してほしい」という期待は、常に裏切られます。
言葉によるコミュニケーションが無いというと、長年寄り添ってきた老夫婦のような、良好なイメージが浮かぶかもしれません。
しかし、なかなかそうはできないものです。
伝えたいことがあるのに、伝えられない苦しさ。
コミュニケーションができない、辛さ。
それらは、ほんとうにしんどいものです。
そこにはすべてを物語るような「一瞥」があるだけです。
引用文の、この表現に、そのしんどさが集約されているようです。
それなのに、どうして言葉によるコミュニケーションを、しないのか。
引用文では、こう言っています。
それはなぜかというと、もしあなたの言ったことで相手が傷ついたら、言ったほうおも落ち込んでしまうからです。
自分の言葉で、相手が傷ついてしまったら…という怖れがある、と。
それは、「自分の言葉は人を傷つける」という思いこみや、「かつて自分の言葉で相手を傷つけてしまった」という傷から、そんなふうに思うのかもしれません。
それらをひとくくりにするのは、少し乱暴かもしれないのですが、ひとえにそれは「罪悪感」と見ることができます。
この「罪悪感」があるがゆえに、言葉によるコミュニケーションが難しくなり、関係性を変化させることが難しくなる。
「癒着」とは、「罪悪感」を接着剤にして、ぴたっとくっついていると見ることができます。
問題のデパート、総合商社、「罪悪感」。
ほんと、どこにでも顔を出してきますよね…
「癒着の陰に、罪悪感あり」という金言もあるくらいです。
3.生き生きとした関係性のために
「罪悪感」の裏側にあるもの
「癒着」の接着剤には、「罪悪感」がある。
どのテーマでも、この「罪悪感」にぶち当たる気がします笑
「罪悪感」は、私たちが無意識レベルで抱えているものなので、それを無くそうとしても、難しいものです。
無くそうとするよりも、それを緩める、という見方。
いろんな緩め方がありますが、その中でも、「罪悪感」の裏側にあるものを見つめることを、お伝えしたいと思います。
なぜ、人が「罪悪感」を抱くのか。
それは、それだけその相手が大切だから、に他なりません。
いわば、「罪悪感」があるところには、その裏側に膨大な「愛」がある。
「罪悪感」を考えると、どうしてもそのしんどさに目が向きがちです。
しかし、その根源には、その人のことを想う「愛」があるんだ、ということは、何度立ち戻っても、いいように思うのです。
生き生きとした関係を、取り戻すために
「癒着」とは、「罪悪感」ゆえに、相手とぴったりとくっついてしまう。
その結果として、言いたいことが言えず、関係性が硬直してしまう。
「罪悪感」を緩める方向でのアプローチもいいですが、逆に「関係性を動かす」というアプローチも有効かと思います。
すなわち、「言いたいことを、伝える」ことです。
もちろん、それができないからこそ、苦しいのは分かります。
人の気持ちを推し量ることのできる人ほど、何度も脳内シミュレーションをしてしまうものです。
「これを伝えたら、相手はきっとこんな反応で、そしたら私はこう言って…」
将棋のプロ棋士のように、何手先も読んでしまうのは、あるあるだと思います。
数十手、数百手先まで読んで、疲れてしまい、結局は何も言わない。
ありますよねぇ、ほんと…
そんなときは、いきなりすべてを伝えようとしなくて、いいんだと思います。
スモールステップ。
今日は、昨日よりも、少しだけでも多く伝えてみる。
自分の気持ちを、一言添えてみる。
それだけでも、全然違うと思います。
小さなステップで、いいんです。
そして、どんな小さなステップでも。
それをできた自分を、褒めてあげてくださいね。
「癒着」は関係性が硬直する、「死」のようなものと上に書きました。
しかし、「死」のすぐ近くには、新しい生があります。
草木の枯れる冬を過ぎると、新しい生命が芽生える春が訪れるように。
硬直した関係性の先には、まったく新しい関係性が待っています。
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