大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

おたがいの自立を阻む「癒着」は、「与える」意識が抜け出すカギになる。

「癒着」していると、お互いが依存しあうことになり、お互いが自立することを阻んでしまいます。

それを悪いこととするよりも、「癒着」できるくらい愛が深いと見ることもできます。

「癒着」できるほど愛が深い人だからこそ、相手が望むことを考え、与えることができるはずです。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.癒着は愛をはばむ

真実の愛は、相手の人にとっていちばんいいことを心から望みます。

愛している時は人とつながるようなやり方で、「相互依存」によって自分自身を広げていきます。

 

しかし癒着しあっている関係では、二人のあいだに「共依存」があり、どちらも前に進めません。

助けるほうの人は、相手がよくなると、自分の依存性や前に進むことをこわがっている部分が明らかになってしまうことを怖れます。

そこで相手を束縛するようなかたちで与えるのです。

 

もし相手に束縛されていると感じるなら、あなたは癒着から行動しています。

すると本当に相手の助けになることはできません。

相手をどんなことにも直面させられず、その人のために必要な場合でも厳しい態度がとれないのです。

癒着は、こうした強いコミュニケーションを生みだす親密感をはばみ、本当に助けるために必要なことをしたり言ったりする力もなくしてしまいます。

 

癒着は偽りの親近感であり、相互依存を妨害します。

癒着の状態では、ある面で両者が飢餓感を感じており、愛が生みだすような成長や癒しや滋養をもたらしはしません。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.167

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2.自立を阻む「癒着」

今日のテーマも、「癒着」です。

これで4日続けて同じテーマになりますが、それだけ私が「癒着」体質なのでしょう笑

というのは冗談ですが、今日は「癒着」を通じて、愛し方について考えてみたいと思います。

「相互依存」というパートナーシップの桃源郷

心理学においての「癒着」は、他人との心理的な距離が、近くなり過ぎている状態を指します。

心理的にぴたっとくっついてしまって、離れられない、何をするにも相手のことが気になる。

だから、関係性が硬直してしまう。

これを、私たちの心の成長プロセスである、「依存」と「自立」の視点から考えてみます。

私たちの心は、「依存」からはじまり、「自立」へと進んでいきます。

「あなたがいないと、私は何もできないの」という状態から、
「あなたがいなくても、私は大丈夫なの」という状態へ。

しかし、「自立」は何でも一人でやろうとするがゆえに、誰にも頼れなかったり、周りとのつながりが切れてしまったりします。

そこから、もう一度、手を伸ばすと、「相互依存」という状態になります。

「私ができることは、私がする。私ができないことは、あなたが助けてね」
「ひとりでも楽しい。でも、あなたといると、もっと楽しい」

という状態です。

この状態だと、成熟したパートナーシップが築きやすいのは、イメージしやすいと思います。

お互いが地に足を着いて、お互いを高めあう関係。

ビジネスでも、同じですよね。

長く続く取引というのは、お互いに「自立」していて、それでいてお互いがお互いを選んで尊重している、という状態が多いかと思います。

お互いの自立を阻む、「癒着」

しかし、「癒着」している関係性では、その状態に至ることが難しくなります。

しかし癒着しあっている関係では、二人のあいだに「共依存」があり、どちらも前に進めません。

「共依存」という言葉は、様々な場面で使われるので、使う人によっていろんな定義があります。

なので、ここでいう「共依存」とは、あくまで引用している本書の上での定義、ということにさせてくださいませ。

さて、お互いがお互いに対して、「依存」している状態を「共依存」といいます。

「共依存」の結果、「あなたがいないと、私はダメなの」とお互いが感じている状態になるので、心理的に離れがたくなるわけですね。

「共依存」の関係にあると、「癒着」している、と言えます。

このお互いが「依存」してしまう関係になると、お互いがお互いのことを監視し、「自立」しないように見張ります。

だって、自分だけ置いてけぼりになるのは、イヤですもんね。

助けるほうの人は、相手がよくなると、自分の依存性や前に進むことをこわがっている部分が明らかになってしまうことを怖れます。

とありますが、まさにその通りです。

相手が前に進んで、「自立」してしまうと、自分の「依存」が明確になってしまう。

自分が怖がって、「依存」のままにいることが、分かってしまう。

だから、束縛もしますし、けん制もすれば、監視もします。

それは、一見「相手のためを思って」のように見えて、実は自分のニーズを満たしたいだけの言動ばかりになります。

子どもと親の関係だと、分かりやすいですよね。

「子どものために」というフレーズに、親のニーズを隠していることは、よくある話です。

やってしまいますよね、ほんと…泣

3.「癒着」からではなく、愛するために

「癒着」=悪いことではない

カウンセリングなんかでもあるのですが、「癒着」していることを、自覚されている方がいらっしゃいます。

そして、それがよくないことだと、ご自身を責めておられることが多いです。

けれども、「癒着」することが、悪いことでもなんでもありません。

いまは、そうだったとしても、それは変えていくことができる。

だから、そんな方には、「癒着していることに、気づいたことが、素晴らしいです」とお伝えしたりします。

自覚するということは、自分の内面に向き合っているから、できることです。

まずは、そのことの価値をお伝えしたいと思っています。

たとえ、その向き合った結果、「癒着」していると気づいたとしても。

「あぁ、いまの自分は、癒着しているんだな」と、善悪の色を付けずに受け入れられたら、いいですよね。

「いまの」自分を、そのままに受け入れる。

自己受容、自己肯定感の、一丁目一番地です。

もちろん、「癒着」しているからこそ、苦しいですし、だから何とかしたい、と思うんですけれどね。

相手の幸せのために、何ができるだろう?

その苦しい「癒着」を、和らげるために。

これまで3日間の記事では、「自分に意識を向けましょう」とお伝えしてきました。

「私は何を感じているんだろう?」
「私がしたいことは何だろう?」
「私は私、あなたはあなた」

自分と相手との境界線を引く、ということですね。

今日お伝えすることは、それと正反対に聞こえるかもしれません。

「ああ言えばこう言う」心理学、まさにそのままですね笑

今日お伝えしたいのは、「相手の幸せ」を考えてみることです。

真実の愛は、相手の人にとっていちばんいいことを心から望みます。

相手にとって、幸せなこと、いちばんいいこととは、何だろうか?

何が、相手にとって幸せなんだろうか?

それを考えることは、自分が相手の幸せに対して、何ができるだろう?と考えることにもなります。

さきほど、「癒着」の状態は、お互いがお互いに「依存」しあっている、と書きました。

その「依存」から抜け出す方法の一つは、「与える」側に回ることです。

「相手にとっての幸せとは、何だろう」
「そのために、私は何ができるだろう」

その問いは、私たちを「与える」側に導いてくれます。

「相手が与えてくれないのに、なんで私だけ!」、と思いますよね、そりゃあ笑

けれど、その痛みは、与えてもらうことで満たされるわけではありません。

その痛みを越えて、与えるとき。

人の心は、癒されるんです。満たされるんです。

不思議ですよね、人の心って。ほんと。

 

いま、「癒着」して苦しい方には、もしかしたら信じられないかもしれませんね。

けれど、ほんとなんです。

大丈夫です。

「癒着」してしまうくらい、愛が深い人なんですから。

「癒着」の問題点をお伝えするよりも、その愛の深さ、偉大さを、お伝えしてきたいなと、いつも思っています。

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