大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「哲学の道」の思い出に寄せて。

京都の名勝に、「哲学の道」がある。

戦前の日本哲学界の巨人、西田幾太郎氏が思索にふけりながら歩いたことから、その名が付けられたと聞く。
桜が咲き誇る春から、新緑、初夏、紅葉、そして雪の降り積もる冬と、四季折々の姿が美しい小径である。

私が訪れたのは、母と二人で京都を観光した際のことだっただろうか。
だとするなら、もう二十年以上も昔のことになる。

確か、冬の季節だったような気がするが、それはまた違う機会だったのだろうか。

写真も残っておらず、訪れた季節も曖昧なくらい、昔のことになってしまった。

なぜ、私と母の二人だったかの経緯も、覚えていない。
ただ、とても、静かな小径だったように覚えている。

とかく思考が過ぎると、人は下を向く。

「長考に沈む」とはよく言ったもので、頭で考えようとすればするほど、それに比例するように沈んでいく。

下を向くと、首が曲がり、呼吸は浅くなる。
口角は下がる。眉間に皺が寄る。

何かを探すようになる。

思考の対象が、それで見つかるようなものであればいいが、そうではないときもある。

考えても分からないとき、あるいは探しても見つからないときは、そういうときなのだ。

空を、風に揺れる木々を、咲く花を、見上げたときに、ふと、見つかることもあるかもしれない。

顔を上げる。

口角が上がり、笑顔になりやすくなる。

気道がまっすぐになり、深呼吸できるようになる。

ほら。

探してたものは、そこにあった。

最初から、そこに。

京都大学哲学科の祖ともいわれる、西田幾太郎氏。
ときに深く思索に沈むこともあったのかもしれない。

「哲学の道」の風景を見上げることが、そんな西田氏を慰めたのだろうか。

二十年前のこと、まだインバウンド需要もなく、厳寒期であればなおさら静かな小径だったのかもしれない。

いまは、どうなのだろうか。

また、あの小径を訪れたくなった。

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哲学の道の写真がなかったので、同じ京都つながりで伏見稲荷大社の夕暮れ。