「傷つくならば、それは愛ではない」。
1年間、このタイトルと向き合い、愛ではないのだとしたら、それはなんだろうと考えてきました。
いまの私の考えは、それも愛なのだろうと思うのです。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.傷つくならば、それは愛ではない
あらゆる歌や本や映画が語っていることとは違い、愛は傷つけません。
傷つくのは望みが満たされないとき、ほしいものが得られないとき、関係のなかで過去の痛みにふれたときなどです。
愛は何ものも傷つけることはできません。
愛はつながっている感覚であり、よろこびをもたらします。
ただ、あなたがちぢこまったり、背を向けたりしたときにそれは傷となるのです。
あなたの心が広がるとき、少し傷ついたように感じることがあります。
それは胸の奥がキューンとするような感覚で、あなたの心が愛と感謝で大きくなっていく豊かさのしるしです。
長いこと不自由だったあなたの心が、いまいちど、踊りはじめているのです。
これは本当に甘い感覚です。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.250
2.愛のように見えて、愛とは別のもの
チャック・スペザーノ博士の名著「傷つくならば、それは愛ではない」。
その一節とともに、心理学を学んでいく記事を書いてきましたが、最後はこのタイトルの記事で締めたいと思います。
「傷つくならば、それは愛ではない」、私の好きな言葉でもあります。
自分の欲求を、愛に見せかけてしまう
ときに私たちは、自分の欲求を、愛に見せかけて行動したりします。
その行動を、周りの人に反応してもらおうとします。
しかし、自分が期待した反応が得られなかったときに、私たちは傷つきます。
「これをしてあげるから、かわりにこれをしてね」
「これだけがんばったから、これくらいはもらっていいはず」
「これをしたから、認めてもらえるはず」
承認欲求だったり、犠牲だったり、補償行為だったり、期待だったり。
相手のためにやっているはずが、実は自分の欲求を満たすためになってしまっている。
そして、その欲求が満たされなかったときに、「愛されなかった」と傷ついてしまう。
これは、ほんとうによくあることです。
そうした行為や、そこにいたる心理が、「偽りの愛だ」とか、「まちがっている」と言いたいわけではありません。
そうせざるを得なかった、そう行動しないといけないと感じた、ただそれだけなのでしょう。
そこに間違いも、何もありません。
ただ、ほんとうに相手を想う気持ち、愛があったとしたら。
相手の反応は、気にならないものです。
相手の反応がどうあれ、与えるということを楽しむことができます。
自分が傷つくということは、そこに何らかの欲求だったり、満たされない想いが混じっているのかもしれません。
「愛ではないから、間違っている」というわけではありません。
「傷つくということは、もっと深く愛することができる」ととらえるのが、いいのでしょう。
どうして、欲求は生まれるのだろう
愛ではない与え方をしてしまうとき、自分の欲求がある、と書きました。
そうした欲求は、過去の傷や満たされなかった経験から、やってきます。
自分だけを見てほしかったのに、愛されなかった。
誰かのためにがんばったのに、その人を笑顔にできなかった。
どれだけがんばっても、認めてもらえなかった。
自分の気持ちを分かってくれる人がいなくて、寂しかった。
そうした過去の傷や、満たされなかった想いが、いまの欲求となってあらわれてきます。
その欲求が、純粋に誰かを想う気持ち、ただただ与えたいという想いに、不純物を混ぜてしまうわけです。
繰り返しになりますが、だからといって、それが間違っているわけでも、いけないわけでもありません。
愛からではない行動をしてしまったとして、もしそれに気づいたとしたら、
「あぁ、まだ満たされていない部分が、自分のなかにあるんだな」
と思うだけで、いいんだと思います。
「愛ではない」からといって、そこで自分自身を責める必要は、まったくありません。
「そうか、満たしてほしかったんだよね。そりゃあ、あれだけ傷ついた経験をしたら、しょうがないようね」
そう、自分自身に伝えてあげることが、大切なんだと思います。
「傷つくならば、それは愛ではない」。
そう、気づけたことが、素晴らしいことなのですから。
3.愛ではないならば、それはなんなのだろう
「傷つくならば、それは愛ではない」
昨年の1月から1年間を通して、本書の言葉に毎日触れてきました。
このタイトルも、毎日目にしてきました。
そうしているうちに、こんな疑問が私のなかに浮かぶようになりました。
「『傷つくならば、それは愛ではない』、もしそうだとしたら、それはなんなのだろう?」
相手の反応をうかがったり、自分の欲求をこっそりとしのばせたり、何か見返り期待したり、そんな行動や選択を、よく私たちはしてしまいます。
「それは、愛ではない」
「愛とは、相手の反応を気にしないもの」
「与えること自体が、よろこびであるもの」
それは分かるのだけれども。
そうだとしたら、「それ」は、なんなのだろう。
そんなことが、ずっと私の頭のなかに、ぼんやりとありました。
「それは、犠牲である」
「それは、補償行為である」
「それは、期待である」
「それは、…」
もちろん、そういった見方をすることはできます。
それはそれで、正しいのでしょう。
だからといって、そこで終わりかというと、そうでもないように感じるのです。
私が興味があるのは、
「なぜ、しんどい犠牲をしなくてはならなかったのだろう」
「どうして、補償行為なんかをしなくてはいけなかったのだろう」
「期待してしまうのは、なんでだろう」
という点です。
その奥底には、満たされない欲求や、傷ついた過去の痛みがあると、先ほど書きました。
愛されたかった。
私を見てほしかった。
認めてほしかった。
大切にしてほしかった。
苦しいほどの、そうした満たされない想い。
その痛みは、結局のところ、「誰かを愛したかった」という想いの裏返しなのではないかと、私はつとに思うのです。
お母さんを。
お父さんを。
あるいは、自分自身を。
もっと、愛したかった。
もっともっと、愛したかった。
カウンセリングでお話を伺っていると、切ないほどの、そんな声なき声を聴くことがあります。
そんなときは、犠牲だ補償行為だというよりも、ただただ、
「それほどまでに、愛したかったんですね」
とお伝えするだけです。
結局のところ、裏の裏は、表なのかもしれません。
「傷つくならば、それは愛ではない」
愛ではないのだとしたら、それはなんなのだろう。
それは、やはり愛ではないかと思うのです。
これからも、ここで言葉を書き続けるなかで、カウンセリングのなかで。
その愛に、フォーカスし続けたいと思います。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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