さて、断酒432日目である。
多くの人にとって、最もアルコール摂取頻度が上がるであろう年末年始も、淡々とノンアル生活を続けていた。
慣れれば何のこともないものである。
これで断酒して1年2ヵ月と少しになる。
浴びるように飲んで酔っ払っていた頃があり、そして断酒をして1年2ヵ月と少し。
その落差があればこそ、断酒が与えてくれる恩恵と、お酒がもたらしてくれる恩恵の両方を実感することができてきた。
さて、今後はどうしようか。
断酒1年の風景を見ることができたので、「ほどほどに嗜むことに挑戦してみる」という選択肢もある。
また、断酒の諸先輩方の手記などを見ていると、1年が一つの境界線であり、次は3年の断酒を継続すると、仕事や活動で一つの成果が出る、と書いている方もいる。
どちらも悩ましいものだ。
それはとりもなおさず、自分の中で「毒」をどう扱うか、という問いなのだろう。
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「毒」といえば。
ギャンブルもまた、「毒」の一つと言える。
かつて、スマホもネットもなかった時代。
馬券を買おうと思ったら、競馬場かウインズと呼ばれる場外馬券場に行くしかなかった。
競馬場はまだしも、ウインズとなると、それはもうガチンコで馬券を買う層しかおらず、一種独特の雰囲気があった。
大人しか遊べない、イケナイことをしているというか、鉄火場の香りというか。
その空気が、ある種の心地よさと連帯感を生んでいたことは間違いがないように思う。
紫煙の中で専門用語が飛び交う雀荘も、
けたたましい喧噪の中で銀玉の動きに一喜一憂するパチンコ店も同じだ。
「毒」の持つ効用、ともいうべきか。
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桜木町の駅からウインズまでの道すがらでは、テーブルを広げた上で、3つの紙コップの中のどれにビー玉が入っているかを当てるゲームを主催するオヤジがいたのを思い出す。
最初にビー玉が入っているコップを開けて見せてくれるのだが、その後に流麗な手つきでビー玉を入れ替えていく。
鮮やかな手つきがピタリと止まって、さあ、おにいさん、どれに入ってるかな?、と。
これだろ?とポケットからお札を出して、真ん中のコップの前に置く観客の一人。
開けてみると、見事にビー玉はそこにあり、オヤジは「お見事」と言って、置いたお札に2枚を足してその観客に返す。
次は負けないよ、とオヤジ。
またビー玉を見せてから、カップをシェイクする。
今度は何人もの人数が参加して、明らかにそれと思わしきカップの前に札束が積まれた。
オヤジが右手のカップを開けると、ビー玉の姿はない。
続いて真ん中のカップを開けるも、ビー玉はない。
果たして左のカップを開けると、そこにはビー玉がころり。
そのカップを開けると同時に、オヤジの左手は札束を掻っ攫っていた。
熱くなった観客は、もう騙されないぞとばかりに目を凝らす者、オヤジのシャッフルは無視して1/3の確率に賭けようとする者など、賑わしくなる。
最終レースの後だから、勝った客は遊んでみるかというノリで、負けた客はその分を取り返そうと目をぎらつかせて、そのテーブルの周りが熱気を帯びだす。
こうなったら、もうオヤジの勝ちである。
すべてのギャンブルは、基本的に子方が増えた時点で勝ちだ。
いま振り返れば、あの初回に勝つ観客もサクラだったのだろうかと思う。
そもそも、よく賭博開帳で通報されなかったものだ。
いや、何度も通報されて、即座に撤収可能なあのスタイルに落ち着いたのか。
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競馬に限らず、公営ギャンブルが新しい客層を発掘しようと、女性や家族連れをターゲットにして久しい。
テレビCMを見ていれば分かる通り、ギャンブル色を薄め、レジャー化したノリで、新しい顧客を開拓しようとしている。
新しい顧客層を開拓しなければならないのは、公営ギャンブルに限った話ではないのだが、競馬などはそれが奏功しているように思う。
昭和の鉄火場の雰囲気はどこへやら、いまは競馬場に行けば女性専用のカフェや、甘いものが売っていたり、子どものための遊具が設置されていたりする。
それはそれでいいのだが、その路線だと一度訪れた新規顧客をリピーターにするのは、困難が伴うなぁ、と思ったりもする。
レジャーを前面に打ち出してしまうと、それこそディズニーやUSJなどのテーマパークを含んだ、あらゆるエンタメ施設と競い合わないといけないからだ。
その反面、「大人のイケナイ遊び」というポジションは強い。
確実に、それにお金を遣う層がいるからだ。
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「毒」をどう扱うか、ということを考えていたら、とりとめもない話になった。
レジャー化した競馬場と、鉄火場のウインズ。
どちらが魅力的かは、人それぞれの好みでしかない。
お酒というある種の「毒」。
それをどう扱っていくか、ゆっくり考えていこう。
10万人を収容する巨大レジャー施設、府中。東京ドーム2個分と考えると、恐ろしいものだ。