一宮市は、真清田神社に参拝した。
訪れるたびに、季節の移ろいを感じさせてくれる。
なにより、この一宮の土地にどっしりと腰を据えた、落ち着いた空気が好きだ。
やはり、自分の「生国の一之宮」だからなのだろうか。
朝の澄んだ空気の境内に、冬が近づいてきたことを実感する。
それにしても、どうして鳥居をくぐると、背筋が伸びるのだろう。
楼門は、晩秋の朝日を浴びて、今日も雄大にそびえ。
楼上に掲げられた扁額は、聖武天皇のご宸筆と伝えられる旧額を模したと聞く。
歴史の縦軸と、地の横軸が交わるから、神社は面白い。
拝殿を望む。
晩秋の朝だが、こうして写真を見ると、冬の夕暮れのようにも見える。
はじまりとおわりは、同じように。
奉納された菊の花が飾られていた。
見事な、黄菊。
なぜ、このような見事な形になったのだろう。
しばし、その形の美しさをぼんやりと眺める。
なぜ、そうなったのか。
美しき世界を見るとき、あるいは何か痛ましい過去を振り返るとき、そんな問いが思い浮かぶ。
どんな答えが浮かんだとしても。
きっと、世界はそうでなくてはならなかったのだろう。
いま、目の前に映る世界が、すべてだ。
境内の八龍神社、厳島社を囲む神池のまわりの灯篭に、灯りが。
ひんやりとした空気と、ぼんやりとした明かりと、晩秋のやわらかな日差しと。
その対比が、心地よく。
八龍神社の社にも、黄色の落ち葉が。
秋、深し。
息を、深く吸って吐きたくなる。
そんな時間が流れていた。