人の縁とつながり
いったい、記憶というのは、人間だけのものだろうか。このキリンのモニュメントや園庭、道路や、あるいは空や星も、その記憶を持っているのではないだろうか。ふとしたときに、それらが持つ記憶というものが、ふっと立ち現れるような気がする。
娘、という存在は、男親にとって特別な存在だ。息子とは、「だいじ」のベクトルが違う。それは、他のどんな関係性とも違う「だいじ」なのだ。
またか。どうせ、来ないんだろうな。そう、思ってしまった。息子から、また近所のヨウイチ(仮)くんと遊ぶ約束をしてきたことを聞いたときの、私の偽らざる心情だった。
いま、この目の前の世界。もし、それが間違っているように見えたり、あるいはこんなはずはないと思ったりしても、それはすべてテストの解答と同じなのだ。その間違いに気づくために、テストはある。そして、それは気づいたら、それで終わりなのだ。
「マンションがつくりたい」週末の朝、息子がそう訴えてくる。どうやって作るのかわからないが、息子は作りたいのだ。そして、これまでの経験則上、その「つくりたい欲求」は、お茶を濁すことができない。どうしても、つくりたいのだ。
世界に何を与えるか、という問いは、私が何を与えられてきたか、という問いかけと同義なのかもしれない。その問いかけは、自分が世界から、あるいは天から愛されてきた証や事実を探す旅のようだ。
今月3周年を迎えた刈谷市の「魚屋ごんべえ」さんを再訪した。新規でオープンしてから、3年という時間の長さを想う夜だった。
言葉など、記号に過ぎない。それは、ただの飾りだ。だからこそ、我々はそれを伝え合うのだが。
トイレのドアの向こうからは、鼻歌が聴こえてくる。こんな真夜中に起こしておいて、呑気なものだ。それが、たまらなく、愛おしいのだが。
私が停滞するときは、「持て余す」ときらしい。持て余さないようにするためには。やはり、出し続けることなのだろうか。
仕事始めの小寒の頃、父を想う。それと同時にまた、次の休みに息子と野球をしようとも、思う。
子どもが大きくなるにつれて、問題もまた大きくなるとよく言われる。けれどそれは、子どもが大きくなるにしたがって、問題が大きくなるのではなくて、親自身の深い内面を癒すことが求められるだけのように思う。結局のところ、子どもが見せてくれるのは親自…
自分に才能があるのだとしたら。その才能を、誰と分かち合いたいのか。その緩んだ空気に揺られながら、私の頭からそのフレーズが離れなかった。
平成三十一年であり令和元年でもあった年が、暮れてゆく。そんな年の瀬に思い出すのは、やはり祖父の家のようだ。みんな、いた。どこか時間の流れが、ゆっくりだった。
時にふと、昔の記憶が甦ることがある。よく聴いていた音楽を耳にしたり、以前に通っていた場所に足を向けたり、鼻腔をくすぐる香りが懐かしかったり、あるいは何か心に刻まれることが起こった季節がめぐってきたり、そのタイミングは様々だったりする。そん…
わからなくても、時はいつか満ちるものだよな、と思った。川沿いの木にわずかに残る葉は、やはり燃えるように赤かった。
びっしりと書かれた1日も、真っ白な空白の1日も、2005年の私からの手紙のように思えた。そんな風には、思えなかっただろうけど、そして、そう言われても受け取ることができなかっただろうけれど。それでも、やはり2005年の自分に、その言葉を伝え…
変わらない笑顔が、そこにあった。いくつか他愛のない言葉を交わした。優柔不断な私は、一度決めた商品を変更して、包み直してもらったりした。
親が考えているよりも、驚くほど子供の成長は早い。それなのに、もう要らないものを後生大事に抱きしめて、葛藤してしまうのが、親という生き物なのかもしれない。
押し入れや収納棚の中、あるいはベッドの下といった、普段は「見えない場所」と、「潜在意識」はつながっているらしい。
根本理加さんのクリスタルボウル演奏CD「Crystal Bowl Resonance」に寄せて、理加さんのクリスタルボウルへの想いを執筆させて頂きました。
松坂投手と同時に、この人を観に来た。背番号7、根尾昂選手。前回「昭和の日」に観に来たときは怪我で欠場していたが、この日は元気に3番・ショートでスタメン出場していた。
あの日、手を振ってくれて、どうも、ありがとう。 あの日、よく晴れた丘から吹いた風を、きっと僕は忘れない。
根本理加さんの『Crystal Bowl Resonance』発売を祝して。
福井県勝山市にある、福井県立恐竜博物館を訪れた。訪れた目的は、同施設の野外恐竜博物館でできる化石の発掘体験を息子としたかったのだ。
子どもとのコミュニケーションの中で、彼らの言うことをまず「オウム返し」することが、子どもの自己肯定感を育むのではないか、と最近つとに感じる。そして、それは子どもに限らず、全てのコミュニケーションにおいてとても有効な方法論のように思う。
線香花火は、どうしたって感傷的になる。
1本のオクラを通じて、小さな先生は人生の黄金律を教えてくれるようだ。「結果」はあくまでオマケ。「プロセス」という熱の中に、人生の果実は生るんだ。
遠くで、ツクツクボウシの鳴く声が聞こえた。私は過ぎ行く夏を惜しんだ。
感じきれなかった感情は、心の奥底で感じられるのを待ちながら、眠っているという。その場所は、ふだんは閉じられている心の深い場所なのだろうけれど、それは物理的な場所の場合もあるように思う。忘れられたその感情は、静かにその場所でひっそりと、来る…