大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「束縛」するほどに愛しているのなら、「手放す」ことだってできるはず。

相手を「束縛」してしまうと、相手からの愛を受けとることが難しくなり、幸せをかんじづらくなります。

けれども、自分で縛った鎖は、自分で解きほどくことができます。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.幸福は、だれも捕虜にしない

幸せを感じるとき、自然にだれもが信頼感のなかにいます。

するとコントロールする理由は何もなく、人をしばっておくために情緒的な脅迫の手段に出る必要もありません。

幸せを感じていれば、いっしょに愛と創造性も感じます。

そんなクリエイティブな気分のときに、だれがわざわざ人をコントロールして奴隷にしたり、捕虜にしたいと思うでしょうか。

それにだれかを捕虜にするためには、あなたが看守をしなければならず、そうとうの時間を無駄にしなければなりません。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.458

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2.だれかを縛ることは、自分を幸せにしない

今日のテーマは、「束縛」でしょうか。

相手を心理的に縛りつけてしまったり、情緒的に脅迫してしまったり。

いろんな形がありますが、いずれも自分の幸せを遠ざけてしまうものです。

「束縛」とは、幸せに条件をつける心理

誰しもが、自分に自信がなかったり、あるいは自信を失ったりすると、相手を「束縛」したくなります。

物理的に縛りつけると、何かと問題になりますから、情緒的、心理的に相手を縛っておきたくなるものです。

典型的なのが、パートナーの浮気問題です。

信頼していたパートナーが、隠れて浮気をしていた。

それが発覚すると、自分が全否定されたような感じを受け、自信を失います。

たとえ、パートナーが「ごめん、もうしないから」と言ったとしても、なかなかそれをストレートに信じることは難しいものです。

相手の言葉や行動に、どこか疑いの目を向けてしまう。

誰と会っていたのか、誰と連絡を取っているのか、何を考えているのか。

そうしたことを、すべて監視下に置き、コントロールしたくなります。

そして、「見て、あなたのせいでこんなに私は傷ついたの」ということを、態度やふるまいで伝えることで、相手をつなぎとめようとしたりします。

言ってみれば、それは「執着」の形のひとつなのですが、これはなかなかうまくいきません。

それはそうですよね。

たとえ相手がもう浮気をしていなかったとしても、それを証明するためには、未来永劫、ずっと監視を続けないといけません。

そして、ちょっとでもおかしなことを見つけてしまったら、疑心暗鬼に陥ってしまいます。

言ってみれば、そうした「束縛」の心理は、自分の幸せに条件を付ける行為、と見ることができます。

パートナーが私のもとにいないと、私は幸せではない。

だから、ずっと監視をし続けないといけない。

それは、とても苦しく、しんどく、それでいて切ない状態です。

これはパートナーの浮気問題に限った話でもありません。

親や子どもとの関係、あるいは仕事の上での部下との関係、取引先との関係…いろんな場面で、「束縛」の心理は出てくるものです。

縛りつけていると、愛を受けとれない

こうした「束縛」の最大の問題が、「愛を受けとれない」という問題です。

「束縛」していると、相手の手足を鎖で縛りつけているようなものです。

そうしておけば、相手はどこへも行けないから。

そうすると、相手は自分から離れないわけです。

しかし、それが「相手が自分の意思で、そうしている」のか、「自分が縛りつけているから、そばにいる」のか、わからなくなります。

すると、相手が自分に愛を差し向けてきたとしても、それを受けとれなくなるのが、わかりますでしょうか。

「なによ、いまさら。どうせ私が縛りつけているから、そうしてるだけでしょ」

という感じに。

せっかく、自分が欲しくてたまらなかったものを差し出されているのに、それを受けとれない。

これが、キツいんですよね。

愛を受けとれないと、人は強い罪悪感を抱きます。

自分は悪い人間なんだ、愛されてはいけないんだ。

そうすると、「束縛」をなおさら強める方向に向かって、負のスパイラルに入ってしまうわけです。

これが、相手を「束縛」することの、最も大きな問題です。

3.束縛するほどに愛しているのなら、手放せるはず

考えてみれば、幸せなときに、人は誰かを「束縛」しようとは思いません。

逆に見れば、誰かを縛りつけようとしてしまうとき、私たちは何らかの執着を抱えています。

相手の行動が気になってしまうとき。

自分の思い通りに相手を動かしたいと感じるとき。

自分を傷つけたりすることで、相手の気を惹こうとしてしまうとき。

そんなときは、相手への執着を手放すときなのかもしれません。

「手放し」とは、ぎゅっと握りしめたその手を、ゆっくりと、やさしく開いていくようなイメージです。

相手を縛りつけていた鎖を解き、相手を自由にする。

それは、とりもなおさず、自分自身をも自由にすることでもあります。

その結果、相手がどこへ行くのかは、わかりません。

自分のもとに留まるのかもしれませんし、どこかへ飛び立つのかもしれません。

また、どこかへ飛び立ったその先に、また戻ってくるのかもしれません。

それは、自由です。

そして、自分自身もまた、自由です。

どこへ行っても、なにをしていても、私は私。

私は、どうあっても幸せになれる。

そんな自分自身への信頼が、「手放し」を支えてくれます。

「そんなこと、無理!」と思われますでしょうか。

でもね、大丈夫なんです。

「束縛」するほどに、相手を想うことができるのならば、「手放す」ことだって、できるはずです。

「束縛」するほどに、エネルギーを注ぐことができた相手なんですから。

「手放す」ほどの愛を送ることも、必ずできるはずです。

だから、大丈夫なんです。

たとえ「束縛」していたとしても、必ず手放せます。

幸せを、感じることができます。

今日は、「束縛」してしまう心理について、お伝えしました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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