大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

四季五感

葉桜の美しさについて。

桜の散り際になると、葉桜を見ることができます。咲きかけや満開の桜もいいのですが、この葉桜もまた、風情があっていいものです。そして葉桜は、実にいろんなことを教えてくれるようです。

この春のように、混沌なかにあるときこそ、生命が芽吹くとき。

先が見えなくて、視界がぼやけているとき。わけのわからない、混沌のなかにいるとき。そうしたときが、もっとも生命の力が芽吹いているときのように思うのです。

弥生の終わりに、自分をねぎらう言葉を。

草木は芽吹き、花は咲き、何かと周りも気ぜわしくなる時期ではありますが。あせらず、ゆっくり。身体を気遣う時間を持つことも、大切な時期なのかもしれません。

春の雨の下の桜と、別れについて。

美しく咲いた桜も、いつかは散ってしまいます。散らない桜など、ありません。そうだとするなら、なぜ毎年、桜は咲いてくれるのか。それはとても健気なように見えて、それでいてどこか切ないものでもあります。

春分の日、半分の日。喜びも、悲しみも、等しく。

今日は春分の日。昼と夜が、半分ずつになる日。12月の冬至で夜の時間が最も短くなり、そこから反転して徐々に徐々に昼の長さが伸びてきて、ちょうど半分になったのが今日。

めぐる春と、桜と愛と。

「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」そう詠ったのは、在原業平だったでしょうか。

白き花、笑うように咲く。

春の空に、満面の笑みを浮かべる白木蓮。この時期だけのギフトを、楽しむことができた春の日でした。

訪れる春の麗らかさと、過ぎゆく季節の切なさと。

早いもので、もう時候は「啓蟄」を迎えました。地中で眠っていた生きものたちが目覚め、土の外に出てくるころ。小さな虫から、熊などの大きな生きものまで、冬眠から目を覚まして、春の空気に触れる時候です。

弥生のはじまり、悲しみと喜びのめぐる春。

3月、弥生。雨水も末候、「草木萠動(そうもくめばえいずる)」。その生命力にあふれ、さわやかなイメージとはうらはらに、どこか3月は人のこころを揺らすことがあります。

2月の雨はどこか静かで、やさしく。

この間、立春の記事を書いたと思ったら、もう季節は進んで「雨水」のようです。 降る雪が雨に変わり、雪解けがはじまる時候。 その降る雨のなかに、春の息吹を少しずつ感じるころでもあります。 張り詰めた雪や氷の季節から、暖かに流れる潤いの季節に、移り…

色に、春を想うこと。

色に、春を想う。流れる季節を愛でることは、私たち自身を愛することと、どこか似ているようです。

木蓮が、伝えてくれるもの。

どれだけ固い殻に包まれていても。どれもこれも、ぜんぶその蕾が開いていく。だから、だいじょうぶ、だいじょうぶ。

春立てる日、また新たな道を。

不完全なようでいながら。それでも、この目に映る世界は、完全なようです。春立てる日。また、新たな道を、歩いていきたいと思います。

厳しい寒さは、寄せては返す波のように。私たちの心も、また同じように。

余寒、という言葉があるように、厳しい寒さが戻ってきたりしながら、季節はめぐっていきます。私たちの心も、同じようなものかもしれません。

寒さが一番厳しい季節には、もう春の胎動ははじまっている。

この大寒の時期、確かに春の胎動を感じるように。目に見えるものと、目に見えないものは、少し違う速さで動いている。季節のめぐりは、実にさまざまなことを教えてくれるようです。

冬至に考える、自分の闇を愛するということ。

自分を愛するという旅路のなかで最も難しいのが、この自分の闇を愛するということかもしれません。

立秋、過ぎゆくものは追ってはならぬ。

昼下りの時間に、外を歩いてみた。 そこには、もう肌を焦がすような日差しは、なかった。 見上げれば、どこか空に透明感が宿っていた。 アブラゼミの声が、出番を終えた役者の声のように聞こえた。 ああ、また夏が終わるんだ。 また一つ、私は掌中の珠を失く…

七夕に、祈りを。

今日は、時候の上では「小暑」。 夏至を過ぎて、少しずつ昼間の時間が短くなるものの、ぐんぐんと暑さが増してくる時期です。 七十二候では、「温風至(あつかぜいたる)」。 文字通り、熱を帯びた風が、夏の本格的な訪れを感じさせる時候です。 今年は、6…

夏、至る日。過ぎたるときを想う日。

あなたにとって、夏至の今日は、どんな日でしたでしょうか。願わくば、あなたのたいせつな人が、笑っていますよう。そんな今日で、ありますよう。

麦秋と紫陽花と、夏を想うこと。

時に「麦秋至、むぎのときいたる」。梅雨入り前の、心地よい風とともに。紫陽花が、咲いていました。

立夏。もう夏のような、まだ夏でないような。

気づけば、二十四節気の一つ「立夏」を迎えました。春分と夏至のあいだ。春が極まり、暦の上では夏に切り替わる時候です。

春分、木蓮も高らかに。

今日は、春分の日。太陽が真東から昇って、真西に沈む日。冬至から少しずつ長くなってきた陽の長さは、ようやく半分まできたようです。陰陽論においては、この春分を境に「陽中の陽」の区分けに入ると聞きます。

麗らかに、桃始笑。

今日は一足早く春が飛んできたような、そんな陽気になりました。 時候は「啓蟄」も末。 七十二候では「桃始笑/ももはじめてさく」、季節の桃の花が咲くことを「笑う」と表現する、私の好きな時候の名の一つです。 花が咲くことを、「笑う」と表現する、昔の…

立春、東風解凍。あるいは、雪に梅花。

今年はじめての、梅の花。雪をかぶりながらも咲いている姿が、なんとも健気で、美しく。「耐雪梅花麗(雪に耐えて梅花麗し)」かの西郷隆盛さんが、留学する親類に寄せた詩の中の一節が、想起されるようでした。

痛みの中に愛を見るように、寒の中に春を見る大寒のころ。

一年の中でも最も寒いこの時期だからこそ、春の訪いを見つけることができます。それは、大きな痛みの中にあるときにこそ、普段は見えなかった愛が見えることと、似ているのかもしれません。

木蓮は、木の伝達者。

「木蓮は、木の伝達者なのよ」以前に聞いた、そんな言葉を思い出します。新春の陽の光を浴びて、そのときをじっと待つ木蓮。その姿は、私に何を伝えてくれているのでしょうか。

冬至を過ぎて。変わりゆくもの、変わらないもの。

時節は「大雪」から「冬至」に移りました。陰極まりて、陽となす。寒さはこれから本番ですが、日の長さは冬至を境に、少しずつ少しずつ長くなっていきます。

冬に至る道中を、その変化を楽しむ。

12月も20日を過ぎました。ここ数日で、ずいぶんと冬らしく冷え込んできましたので、もう真冬のコートや暖房などを引っ張り出しております。そんな12月も、あと10日もすれば大晦日。2021年も暮れゆくと思うと、早いものです。

師走の空は、なぜこんなにも澄んでいるのだろう。

急に冬が本気を出してきたようで、昨日の夜から大きく気温が下がりました。見る予報によっては、今朝の気温が氷点下になっていましたが、さもありなんと思わされる寒風が吹く朝でした。

ある冬の朝の陽光。

同じ日など、一日として、ない。その陽炎のように移ろいゆくものの中に、たまたま、偶然に、それを見かけることがあるのでしょう。けれど、それは変わらず、いつもあるようです。