四季五感
移り変わりゆくものの中に、人は永遠を見ることができます。 去りゆくものの中に、人は望郷を覚えることができます。 さびしさと痛みの中に、人はいとおしさとあたたかさを感じることができます。
見れば夏の夕焼けが見えていた。 清涼感のある、オレンジ色のグラデーション。生命力に満ちた、夏の一日が終わる。明日は、蝉は鳴いているだろか。
その感覚に触れたとき、ただ過去の自分を思い出す。 そして、そこにいたことを、思い出すことができる。 そこにいた事実を、認めることができる。
日に日に暑さが増してくる、この時期。夏の盛りを感じる時期でもあります。その折に、七夕があるというのは、どこか合っているように感じます。どうぞ、よき七夕の夜を。
誰かに愛を差し向けようとするならば、相手が受け取りやすい形で差し出してあげることが重要です。そのためには、「私のために」という言い訳をつくってあげることが大切なようです。
気づけば、水無月も終わり。ということは、2021年も半分が終わり。まったくもって、早いものです。そう聞くと、少し寂しくなったり、焦ったりもしてしまいますが。季節は変わらず、流れていくようです。
夏に至る日と、冬に至る日と。 もしかしたら、見えているものとは、まったく逆のことが真実なのかもしれない。
時に芒種、梅子黄(うめのみきばむ)。 梅の実が熟して、黄色く色づくころ。 そろそろ梅干を漬けるのに適した梅が出回る頃でもある。
降るがままに、そのままに。 為すがままに。 しばらくそのままで、紫陽花とともに濡れていようと思った。
時に芒種、あるいは蟷螂生(かまきりしょうず)。昨年の秋に産み付けられたカマキリの卵から、たくさんの命が生まれるころ。そんな夕暮れは、黄金に染まるようだった。
寂しさを、そのままに。 その愛を、流れ出るままに。 季節がめぐる、そのままのように。 ただ、そのままに。
紫陽花の美しさ、その不思議さを、みずみずしさを。いつも感じられる身体でいたいと思う芒種のころ、笑う紫陽花とともに。
願いがすべて叶うのだとしたら、どんな世界を作るのだろう。案外と、いま目に映る世界、そのままなのかもしれない。皐月の終わりに、そんなことを考えた。
小さなものを愛でていると、大きな愛に包まれるようにも感じる。 花は誇らず、そこにあるだけ。 花は誇らず、ただ咲く。
ただ、うたかたのように湧き上がっては消えてゆく、自らの感情を見つめること。 現れては消えゆき、変わりゆく感情を、見つめているという事実だけが、変わらない。 それが、内省と言える。
雨の日は、どこか懐かしい。 澱のように積もった何かを、雨音が流してくれるからだろうか。
小さな白い花。スノーデイジー。 ノースポールとも呼ぶらしい。 どこかお雛様の三人官女のようなその姿を、しばし眺めていた。
立夏、夏立てる日。運ばれてくる空気は、どこか熱量を帯びたような色をしてきた。足元に見る花は、原色のように鮮やかな色が多くなった。名も知らない小さな虫を、よく見かけるようになった。あふれるような生命力の季節、太陽の季節。
木々のざわめきが、耳を撫でていてくれた。新緑の音、薫る風の音。どこまでも、心地よい音。
時に咲くこともあれば、時に閉じることもある。ただ、そこにその花がいたことには、変わりがない。ただ、そこにあなたがいたことには、変わりがない。
咲き誇っていようと、吹雪となり散ろうと、萎れていようと、枯れ朽ち果てていようとも。どんな瞬間であれ、いまこの瞬間は美しく、大丈夫なのだ。
青の中に、黄色。菖蒲か、アヤメか。 晩春の青。いましか見られない青を眺め、過ぎゆく春を想った。
時に穀雨。麦や稲をはじめとするたくさんの穀物に、天からの恵みの雨が降りそそぎ、それはやがて大きな実りをもたらす。
目の前にある日常の細部に、すべてが宿る。それを愛することは、世界を、そして自らを愛すること。ただ、そのままに。流れるものを、そのままに。
ぶんぶんと飛ぶクマバチを眺めながら、故郷の藤棚を思い出す。すべてが、そこにあったようにも思えた。
散り際もまた、気高く、美しい。また、来年会えるのを楽しみにしている。わたしは、これからまた季節をめぐるよ。そんなことを想いながら、その散り際の桜の下を通り過ぎる。
日ごとに太陽は力強さを取り戻し、その光量を増していく。天地万物が清らかに輝く、清明。その清らかに輝く木漏れ日の下、歩いた。
今年もまた、清明が訪れる。そして、過ぎ去っていくのだろう。
いつの間に、こんなに暖かくなったのだろう。少し夏を想起させる車内の熱気に、春の訪れどころか、初夏の気配すら感じる。季節は留まらない。留まっては、くれない。
いつの間にか、春も本番のようで。 外に出ると、さまざまな色の桜が咲いているのを見かける。 時に、春分が次侯、桜始開さくらはじめてひらく。