四季五感
いつの間にか、春も本番のようで。 外に出ると、さまざまな色の桜が咲いているのを見かける。 時に、春分が次侯、桜始開さくらはじめてひらく。
あいまいなままでいる。そのままでいる。春色の空。見上げながら、癒しについてそんなことを想う。
受け取ろうが、受け取るまいが。 ただ、そこに在った。
春分の日、彼岸の中日。影が深ければ、光もまた眩しい。
時に、啓蟄。 あるいは、菜虫化蝶、なむしちょうとなる。
誰かが信じていても、誰も信じていなくても。皆が待つにぎやかな桜並木でも、誰も通らない深山の淵でも。花は、咲くのだ。だからこそ、こころ惹かれる。
風と、光と。訪れた、春とともに。桃始笑、ももはじめてわらう。
ときに心配しながらも、季節の流れを見つめ、身をゆだねること。それを、ときに信頼と呼ぶのだろう。
毒が、痛みが、苦みが、あることを認めること。それは、この世界に自分が存在することを、認めることと、どこか似ている。
この青い空が、もう少しぼんやりして霞がかるころ。また、薄いピンク色をした無数の花弁が、空を埋め尽くすのだろう。そんなことを、想像しながら。まだ風の冷たい、川沿いを歩く。
気雪散じて、水と為る。いつか、また水に還るように。時に雨水、春に向かう道すがら。
変化を愛でるのは、生きていることの喜びともいえる。春は、もうすぐそこまで。
いつか見た色のような、それでいて、ここにしかいないような。うすべに色の、ちいさな、春。
立春過ぎて。日に日に、春の気配が感じられるようになってきた。不可逆な季節の流れは、いろんなことを教えてくれる。
今日は、春立てる日。立春である。春隣、はるとなり」。厳しい冬の寒さの中に、どこか春の気配を感じる、そんな言葉を思い出す。
今日は節分、冬と春の境目。家の外から家の内へ。敷居を跨ぐときの、その敷居。そんな存在が、節分なのかもしれない。
空は青く、白い雪は一層映える。時に大寒なれど、吹く風の中には、かすかに暖かな気配を含んでいた。三寒四温。寒くなり、時に雪も降りながらも、暖かな春もまた、やってくる。
「お山に雲がかかってるから、明日は雨かもね」遠く西の彼方に見える山脈を見ながら、よく祖母はそんなことを言っていた。
寒さは、どこか美しさとつながっている気がする。それは、春の暖かさや、夏の輝き、秋のはかなさには、ないものだ。冬の寒さのみが持つ、美しさが、確かに在る。
いい、お湿りですね。ふと、そんな声をかけられたような気がした。ええ、とても。いいお湿りで。そう、返してみた。
身を切る寒風、白く流れる吐息、凍える指先。最も寒い季節のそんな感覚が、好きなのかもしれない。
時に小寒。もうすぐ大寒を迎える、一年で最も寒いころ。そんな中でも、春に向けて季節はめぐるようで。
今日もまた、綺麗に晴れてくれた。その陽の光と、青色を眺めつつ、空を見上げては、写真を撮る。
マンネリと聞くと蔑むニュアンスがあるが、「大いなる」という形容詞がつくことで、それは称賛に変わる。時は、重ねるごとに味わい深くなる。
春がよろこびなのであれば、それを待つ小寒もまた、よろこびの一部だ。この季節特有の、やわらかな陽の光を眺めていると、そう感じる。
寒いのは苦手なのだが、さりとて、朝の玄関のドアを開けた瞬間の「きゅっ」と身が引き締まる凛とした感じは、冬ならではのものだ。季節がめぐるというのは、いろんな感情を私たちに味わうことを与えてくれる。
新年あけましておめでとうございます。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
今年もありがとうございました。どうぞ、よいお年をお迎えください。
クリスマス・イヴである。時間がどんな人間にも平等であるのと同じように、クリスマスは誰にでも訪れる。それは、どこか救いのように思える。
寒さも厳しさを増してきたが、暦の上では「ふゆ、いたる」。冬至である。一年の中で最も昼の時間が短く、夜が長い時候。